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森田正馬の名言(その1)


 2022年06月10日   人物別名言&格言集 
私の教え方は患者の漠然たる抽象的の質問を黙殺して、それに答えず反問して、常に具体的に考えさせるようにする。

☆感情はその刺激が継続して起こる時と、注意をこれに集注する時とに、ますます強くなるものである。

★精神的方面の事に関しては私は高等時代から大学時代にかけて、腹式呼吸もやった。白隠禅師の内観法なども試みた。大学卒業後も気合術や大霊道や、その奇跡的療法のようなものは何でも講演を聞いたり、あるいは実験したりした。

病は何の為に治すか。目的がなければならね。即ち薬なり催眠剤を用いるにしても、単にその容態を治すのみではなく、その人を治さねばならぬ。ここに人生観というものがなければならぬ。

この神経質の病気は、自分で治そうとするほど、ますます悪くなるものである。ここで対人恐怖などで、(中略)いつまでも、人前で恥ずかしい、思う事がスラスラといえないとかいい張る。それは夏は暑い・冬は寒いと同様に、いつまでたっても、どうすることもできないという事に気がつかないのである。 神経質の症状の治ると治らないとの境は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、十年でも二十年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうする事も出来ぬ、しかたがないと知り分け、 往生した時は、その日から治るのである。すなわち「逃げようとする」か「踏みとどまる」かが、 治ると治らぬとの境である。

泥棒をすれば監獄に行く、食べ過ぎれば下痢をする。事実唯真。どうにも仕方がない。ただ事実に服従する、仕方がないから往生するというだけの事で強迫観念が治る。

泣いてしまえば感情が放電されて、心が晴れて何ともなくなる。

人を愛さねばならぬ、人を憎んではならぬという鋳型に自分を当てはめようとする時には、自分の自然の心と理想との間に葛藤が起こって、自ら努力と苦痛を感じ、かえってその人の欠点、悪い所が次第に目につくようになる。

★僕の療法は西洋の療法と言わず、民間療法と言わず、あらゆる療法に手を出して、やってみた結果、自然にできたもの。

感情は同一の感覚に慣れるに従って、鈍くなり不感となるものであり。

感情は新しい経験によって、これを体得し、その反復によって、ますます養成される。

私はこの治療中に患者をして純な心、自己本来の性情、自分を欺かない心というものを知らせるように導く事を注意する。

「つまらない事を考えないようにしたい、いやな考えを起こさないようにしたい」と工夫し努力し苦痛懊悩することがある。然るに吾人は者に触れ事に接して或る感じが起こり考えが湧き出るという事は、生きている間決して否定する事のできない事実現象である。吾人は断食することも裸体でいることも出来るが、考えない事だけは、どうにも仕方がない。それは冬を暖かいと思い、小便を出ないようにしようと努力するのと同様である。この極めて不可能事を少しも不可能事と知らないという事は、甚だ滑稽であり又不可思議の思想ではあるまいか。之は動かすべからず事実を机上理論で支配しようとする思想の矛盾である。又自分が楽になりたいという欲望と、苦痛から逃れたいという心との間に起こる葛藤の内の戸惑いであり迷妄である。

感情はその衝動を満足すれば、急に静まり消失するものである。

幸福というものは、各その個体の機能発揮すなわち努力であるから、努力はすなわち幸福であり、同時にこれが人生の目的である。

今の読書の問題は「遊びに行きたい」という欲望と、「勉強しなければならぬ」という努力とを、そのまま我々の心の事実と認め、これを両立させて自由に開放、発展させて置くと、悪知はなくなって、必要に応じては、楽に勉強もでき、さほどの必要もなければ、愉快に楽しく遊びに行く事ができて、心に拘泥がなく、自由に適切に、その行動を選ぶ事ができるようになる。

思想とは事実に対する説明である。事実に合致せざるものは空想である。

外相整えば内相自ずから熟す。