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カール・グスタフ・ユングの格言


 2023年11月29日   人物別名言&格言集 

あらゆる物事はいつでも小さな何かの中で始まります。目立たぬ個々の人々のもとで、骨が折れるものだというのは確かであっても、良心に基づく仕事を果たしていくことに労を惜しむべきではない。たとえ、私たちが目指す目標が到達不可能なはるか彼方にあるように思われたとしても。

理解できない人のことを愚か者とみなしてしまうことが、人間にはよくある。

辺りを見回して、自分では気が進まない何かを自分の代わりにしてくれる誰かを待っていればよい人などいないのである。自分に何ができるかわかる人などいない。だとすれば、満足のいく意識的な答えがどこにも見当たらない時には、ひょっとしたら無意識が助けとなる何かを知っているのではないかと、自らに問いかけるくらいは勇敢であってよいはずだ。

孤独は私の一生を真に生き甲斐のあるものにしてくれる救いの源泉である。

自分が神経症的であることを知っているノイローゼ患者は、自分の意識の在り方に無頓着な人物よりも、ずっと個性豊かである。

ひとりの人間が自分自身と他の人びとの生活をだいなしにしていることがいかにも歴然としているのに、その悲劇全体がわが身から起こり、次々にわが身から養分を得て維持されているということがなんとしても見えずにいるありさまは、しばしば痛ましい。

人間の性質は、単に全てが光明からなるのではなく、実は多くの影によって占められている。

人生の濁流に身を投じているかぎり、障害がないという人間はいない。

われわれは“自分自身を統御すること”ができると言っているが、自分を統御するのは稀有な素晴らしい徳目である。

自分の情熱の地獄のような有様を通り抜けたことのない人間は、自分の情熱を決して克服することはできない。

人には困難が必要である。健康のために欠かせないのだ。

到底達成できないことに向かって努力するよりも、むしろおまえができることを何か実現させよ。

それをするかどうかを、あまりにもじっくり考えすぎることは「しない」と同じことになる。

The creation of something new is not accomplished by the intellect but by the play instinct acting from inner necessity. The creative mind plays with the objects it loves.

新しい創造というのは知性によって為されるのではなく、内なる必要から本能が為す。創造的な精神は愛することに取り組むものだ。

正しい質問をすれば問題の半分は解決したようなものだ。

学生時代は楽しかった。万事知的にことが運び、また友情にめぐまれた時期だった。

愛のあり方については、最大のもの、最小のもの、最も遠いもの、最も近いもの、それに最高のものと最低のものがある。

ある人に会う靴も、別の人には窮屈である。あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない。

われわれの生まれてきた世界は、無慈悲で残酷である。そして同時に、神聖な美しさをもっている。どちらの要素が他よりもまさるのか、価値と無価値か、は気質の問題である。もし、無意味が絶対に優勢になると、生きることの意味はわれわれの発達の各段階と共に、急激に消え去ってしまうだろう。しかし、このようなことはありえない――と、私には思える――。多分、すべての形而上学の問題のように、両方とも正しいのであろう。生きることは意味があり、そして意味がない。私は、意味が優勢となり戦いに勝つことを切望している。

自らの無意識的な自己を実現する道を歩む者は、必然的に個人的無意識の内容を意識にとりいれ、それによって、人格は大きさを増すのである。

私はこの窮乏時代を忘れはしないだろう。そんな時、人は何でもない物を大切にすることを学ぶのである。

元々、影は意識されることによって自我に統合され、これによって全体性が実現される。全体性とは決して完璧ということではなく、要素が全て揃っているということ。

知識は真実のみに基づくのではない。間違いにも支えられている。

人が個性を育成しつつ人生行路を歩むとき、しばしばあやまちを犯すことがある。さもなければ生は完全ではない。

無意識は決して休まず働いていることを私たちは知っている。無意識は常に何か仕事をしているようだ。

人類の責任ある指導者が、十分広い視野を持って、少なくとも誤った指導を自らやめることができるほどになるためには、なおどれほどの絶望が必要であろうか。

どんなものであれ、中毒はよくない。たとえそれが、アルコールでも、モルヒネでも、理想主義でも。

ある者にぴったりの靴は、他の者にとってはきつい。人生において、全ての人間に適したレシピなどない。

他人にイライラすることはすべて、私たち自身のよりよい理解につながり得る。

あなた自身の心を覗き見るときにのみ、あなたの視界はクリアになるだろう。外を見るものは夢を見、内を見るものは目覚める。

心理的な「同一性」はそれが無意識であることを前提にしている。これは未開人の心性の特徴をなすものであり、「神秘的融即」の固有の基盤である。
参考:ユングの転移観における宗教的次元

親のいない生活くらい、彼らの環境、特に彼らの子どもに心理的強い影響を与えるものはない。

ほとんど毎年、今まで知らなかった何かが姿を現わします。われわれはいつも、さあこれで自分についての発見は終わったと思います。しかし、決して終わっていません。われわれは、自分がこうであり、ああであり、また別のものであるといった発見を繰り返し、時折、仰天するような体験もします。

われわれの生まれてきた世界は、無慈悲で残酷である。そして同時に、神聖な美しさをもっている。

われわれは人生において、しばしば、さまざまな姿に変装した自分の分身と出会う。

世界を創造するのは神ではなく、この私であり、「私」の意識化という創造行為によって初めて、世界は客観的に存在するものとなるのである。

己の心の闇を知ることは、人々の心の闇に対処するための最良の方法である。

悪の力を除外したことを、キリスト教の意識は十二分に承知していたにもかかわらず、キリスト教の意識においては、悪は単に実体の無い一つのシャドウとして脱落した。

意義のあるささいなことは、意義のない偉大なことよりも、人生にとってずっと大切だ。

痛みなしには意識する事はできない。

精神医学の眼には、人生に別れを告げることのできない老人は、人生を受け容れることの出来ない若い人のように弱々しく活気のないように思える。

創造するものが何もないなら、自分自身を創造したらよい。

私の生涯のうちで最もすばらしく、かつ有意義な会話は、無名の人々との会話であった。

慎重でなければならないが、慎重すぎて自分自身による援助までも拒否することがあってはならない。もしそれを拒否するなら、私たちは人間の中の最良のものである、その人の大胆さと向上心を抑圧するのです。

各個人はみな規準からはみ出している。

あなたが抵抗するものが、存在し続けます。

われわれには、失敗に陥ち入らず、致命的危険に遭わないという保証は、一瞬たりともない。安全確実な道も考えることはできる。そういう道をとるときには、もはやどのような場合にも、その場にふさわしいことを、なにもしない。安全確実な道をとるものは、死んでいるも同然である。

愛の支配するところ権力欲は存在しない。権力が幅をきかせるところに愛はない。両者はお互いの影なのだ。

アドバイスをするというのは、疑わしい療法だ。だが一般的に大した害もないだろう。なぜなら大した効果もないからだ。

彼らがどうであるかではなく、それはすべて、我々がものをどう見るかにかかっている。

悲しみと釣合いが取れていなければ「幸せ」と言う言葉はその意味を失ってしまう。

神の意志が盲目なのに一体どのようにしてそのイメージを見ることができるというのか。たとえ見えたとしても、イメージは、神の意志が欲しているそのことをそれに示すのだから、どうして神の意志がショーペンハウエルの言うような知性によって自身を逆転するように勧められることなどあろうか。

あなたが向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会うことになる。

一生の物語は、我々がたまたま思い出したある特定の点で始まり、そしてその時でさえ、既に大変入り組んでいる。我々は一生がどうなるのか知らない。

受け入れることなしに、何も変えることはできない。非難は(精神を)解放するどころか、抑圧するだけなのだ。

人格の本来の意味での成長とは、内的源泉から沸き上がってくる拡大を意識化するということである。

一旦は物質の中に沈降し、しかる後に全ての霊を浄化救済するために再び物質から解き放たれる神の息子というプネウマの観念は、物質に投影される無意識内容にそっくり当てはまる。

あなたが無意識を意識しない限り、それはあなたの人生を支配する。

曖昧なることを説明するに一層曖昧なることを以て、未知なるものを説明するに一層未知なるものを以て、という錬金術の論証法は、啓蒙主義の精神と、そして特に、18世紀の終頃に精密の度を増してきた化学の科学性と折り合いが悪くなった。

全ての混沌には調和が、無秩序の中には秘められた秩序がある。

すべての人間は生まれながらの心理的な力を無意識に共有する。これを「元型」と名づけた。異文化間の神話に見られる類似性から、このような普遍的な原型が存在することを明らかにできると考え、この元型が表現された一つの形態が神話だ。