若きウェルテルの悩み(ゲーテ)の名言
幸も不幸もぼくらの心次第だということはまったくの本当だね。
現在を現在として味わおう。過去は過去さ。
そこに山がなければ、道中はむろんもっと快適だろう。距離も短くなるだろう。しかし現に山があるのだから、越えなければならんのだね。
若い娘が学ぶことを愛し、若い男が教えることを愛する場合に結ばれる青春時代の友情は、ひとつの美しい事柄である。
どんなに尻の落ち着かぬ放浪者だってついには自分の生まれた国に舞いもどり、自分の小さな家に、妻のかたわらに、子供たちのまどいの中に、彼らを養う仕事の中に、広い世界で求めてえられなかったよろこびを見いだすのだ。
世の中のいざこざの因になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね。
あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値あるものになったことだろう。
世の中のことは、どんなこともよくよく考えてみればくだらないのだ。だから自分の情熱や自分の欲求からでもないのに、他人のため、金のため、あるいは名誉とか何とかのためにあくせくする人間はいつだって阿呆なのだ。
第一印象というものは受け入れやすいし、人間はどんなに現実離れのしたことでも信じる気になるものだ。ところがそいつはいったん頭に入ってしまったらこびりついてなかなか離れるものじゃないから、それをあとからかき落そうとしたり削りとろうとしたりしないほうが賢明なのだ。
愛のない世界なんて、ぼくらの心にとって何の値打ちがあろう。あかりのつかない幻燈なんて何の意味があるんだ。
不機嫌というやつは怠惰とまったく同じものだ。つまり一種の怠惰なんですから。ぼくたちはそもそもそれに傾きやすいんだけれど、もしいったん自分を振い起す力を持ちさえすれば、仕事は実に楽々とはかどるし、活動しているほうが本当にたのしくなってくるものです。
僕は思うんだ…不合理な死でも…ときには人の救いになるときがあるんじゃないかな?
人生に咲き誇る花はただの幻にすぎない。だけど…僕たちを喜ばせるものが幻だったとしても…かまわないじゃないか。
たしかにわれわれは万事をわれわれ自身に比較し、われわれを万事に比較するようにできているから、幸不幸はわれわれが自分と比較する対象いかんによって定まるわけだ。
人間の心は時によると信じられないほど鈍くなってしまうものだ。
この世界ではかなく夢を見るように生きて満足だと言っても結局は…自覚のないあきらめの中にいるだけだ。
われわれの本性は、怠惰へ傾いている。だが、われわれは活動へと心を励ます限り、その活動の真の悦びを感ずる。
たった一つだけいわせてもらえばだね、世の中ではあれかこれかで片のつくようなものはめったのあるもんじゃないってことだ。ぼくらの気持ちや行動の仕方は実に複雑なのだ。鷲鼻と団子鼻との間に無数の変化があるようにね。
孤独が一番危険なのだ。
人間が互いに苦しめ合うくらい、ばかげたことはないんだ。