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人間は何か良いことをするとき、少しは無理をしたり、努力したりしなくてはならぬものである。
自立ということは、依存を排除することではなく、必要な存在を受けいれ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。依存を排して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまう。
身分というのは個性の反対。
個性の尊重ということは、一人一人の責任と課題を重くする。
逃げるときはもの惜しみしない。
今の人は、みんな“何かしなければ”と思いすぎる。
自分の持っている器量とか決断力をもっと信じなきゃ信じて開発しなきゃ。
幸福のために頑張っても幸福は逃げ、目の前の一人の人のために一生懸命になると幸福が訪れる。それが幸福の面白さなんですね。
生きた言葉を使わなきゃいけない。
思い通りにならないことこそ、ほんとうにおもしろいことだと思っているんです。
人間の心がいかにわからないかを骨身にしみてわかっている者が「心の専門家」である、と私は思っている。素人は「わかった」と単純に思いこみすぎる。というよりは、「わかった」気になることによって、心という怪物と対峙するのを避けるのだ。
深層心理学の知識を身につけると、他人の心が分かったような気になる人がいる。
道草によってこそ道の味がわかる。
「せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか」という生き方の方が幸せなんです。
物語の『主人公』は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。
人間は短期間だけ親切になることは容易である。
人間には内側を見る方が好きな人と外を見る方が好きな人がいる。
うそは常備薬、真実は劇薬。
「右もだめ、左もだめ」と思ったときには、「いっぺんボーっとするか」というくらいのつもりでいると答えが生まれてくることもあるのではないでしょうか。
あくる朝起きたら、また違う風が吹いているからね。
相手に欠点がないように思われ、何もかもうまくゆくのだったら、その人とつきあうことは当然であり、利己的に言っても価値のあることだから、別に愛などという必要はないかもしれない。欠点のある人(誰しも欠点を持っているのだが)と、自分も欠点を持つ人間として関係を維持してゆく努力の中に、愛があるのではないだろうか。
人づきあいを大切にするというと、すぐに「自分を殺して」とまで考えがちになる。しかし、そんなに自分を殺しても、人間はそれほど簡単に死ぬものではない。
結局、自分の心の奥深くに入っていくと、自分のことでありながら、自分を超えているという、その感じがすごく強くなる。
マジメな人は自分の限定した世界のなかで、絶対にマジメなので、確かにそれ以上のことを考える必要もないし、反省する必要もない。マジメな人の無反省さは、鈍感や傲慢にさえ通じるところがある。自分の限定している世界を開いて他と通じること、自分の思いがけない世界を開いて他と通じること、自分の思いがけない世界が存在するのを認めること、これが怖くて仕方がないので、笑いのない世界に閉じこもる。笑いというものは、常に「開く」ことに通じるものである。
「マジメも休み休み言え」、というときの「休み」が大切なのである。休んでいる間に人間は何か他のことを考える。休みという余裕が、一本筋の自分の生き方以外に多くの他の筋があることを見せてくれるのである。
ゆっくり話を聞いてくれる人が目の前にいると「本人が自分で答えを見つける」ということが起こります。
褒めたらつけ上がるなんてことはまずありません。もっと子どもを信用していい。子どもを信用できないのは、つまりは自分を信用していないから。
人間というものは自分で自分を知らない鉱山のようなもの。自分を生きるということを考え始めると、「こんなこともできるんじゃないか、これもやれるんじゃないか」――と自分を発見することができます。
「私」というのを普通の意味の私と本来的な私とに分けているんです。ユングはそれを「エゴ」と「セルフ」と呼んでいるんです。ぼくはほかに適当な訳語が見つからないんで「自我」と「自己」と訳しているんですが、自我というのは“説明可能な私”で、それは本来的な私とちょっとずれている。特にソーシャルな場面に入っていくほど、お世辞も言わんといかんことがあったりしますが、その底のほうに本来的な自己というのがあるとぼくらは思っているんです。
自我というのは変革できるが、自己というのは変革もくそもないわけで、何も名前のつかないようなもの、いわば無限の可能性みたいなものです。
参考:「人間の成熟」ということ。- 谷川俊太郎と河合隼雄の「対話」が生みだす<ことば>。
日本人の自我は、欧米人とは異なり、常に他者との相互関係の中に存在し、他者を離れた個として確立していない。
ノイローゼの人の苦しみというのは慣れないとなかなか分かりません。
心と体は関連していて自我というのは、心と体の両方コントロールできる。
僕らやってるのは演劇の演出家と同じこと。
依存と自立は反対概念ではない。
子どもを叱って、言うことを聞かない時や、うまくいかない時は、大抵大人がどこか間違っています。
真に理解するということは、こちらの命をかけて向き合わぬと出来ない。自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのは甘すぎる。
子育てや教育の問題をますます困難にする現代の要因の一つは、科学技術の急激な発展にある。
愛情とは、関係を断たぬことである。
「まじめに、真剣に」ということにとらわれると視野が狭くなります。これは一番怖いこと。視野を広げるために一番大事なものは、「道草、ゆとり、遊び」。
笑いというのは距離をとる非常にいい方法。
人間が死ぬときは頭だけが死ぬのではない。人間が死ぬことは、身体全体が死ぬのである
心のなかの勝負は51対49のことが多い。
思い屈するような心萎える時間こそ、心が撓っている状態で、重い雪をスーッと滑り落としているときなんだから、それを肯定し自分を認める。ああ、そうか、俺はまだやわらかな、撓う心を持っているんだと感じて、憂鬱で無気力な自分をも認めたほうがいいんじゃないでしょうか。
学んでいて楽しくないものは、本当の意味で身につかない、というのは私の実感でもありますが、一方で、苦しさを伴わない学びもまた、ニセモノだと思うのです。
肉体的にだんだんと衰える、下り坂を下ることのなかに人間としての成長を見出すという逆説を考えなくては本当の意味での老人の適応ということはあり得ない。
冗談による笑いは、世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方ふさがりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる。
昔は母親が子供に「よい子」であるように願っていても、子どもの方は母親の管理を離れて勝手に行動できる余裕があった。熱心さはうまく緩和され、適当な度合いになっていたのである。
だいたい子どもというものは“親の目が届かないところ”で育っていくんです。
不安っていうのは他人を巻き込む力が強いんです。だから不安の強い人は、なんとなく嫌われることが多い。
自立しているものこそお互いに接触し頼るべき時は頼って生きているが、十分に自立していない人間は、他人に頼ったり、交際したりするのを怖がる。
子どもたちは大人の根本姿勢をすぐ見破る力を持っている。
子どもに「これ、読め」なんて言うとぜったい読まない。だけど「見てはいかん」と言えば、こっそり見に来て「案外おもろいやないか」。
一人の人間が生きるというのは、スゴイことです。
おのおのの人が自分の心の内部にあるコンプレックスを開発してゆく代わりに、それを補う人と結びつくことによって、手っ取り早く相補性を獲得する。
人に意味のある教育者となる為には学力にしろ他の能力にしろ、評価は評価として、しっかりと行いつつ、それが人間の評価とは異なるものであることを自分自身がしっかりとわきまえていることが必要。
問題児というのは、我々に「問題」を提出してくれているのだ。
怖い父親が強い父親とは限らない。
自我が目覚め始める思春期になると、自分は親に「操られている」のではないかと感じはじめ、その時に色々な暴発的な行為が生じる。
クライアントが段々強くなってくると、とうとうお父さんに対するネガティブなものを出せるようになってくる。
自分も知らないような自己をいかに実現するかというのがその人の一生なのだとユングは考えた。
ユングは統合失調症ではないけれど、統合失調症とほとんど同じ症状が出てるんですね。同じ症状が出ていながら、ユングはちゃんと社会生活を普通にやっていたところがすごい。
夢を分析すると、その人の無意識的な心の働きが分かる。
会社で使うエネルギーと家庭で使うエネルギーは全く別のもの。
心理療法というのは大変なエネルギーのいる仕事で、どうして自分はこんなに苦しい事をしなくてはならないのだろうと思うことさえある。
外向的な人は、内面コンプレックスをもっているし、内向的な人は外向コンプレックスを有しているが、このような人達が恋愛や夫婦として結ばれることはよくあることである。
イライラは見通しのなさを示す。
心と体で人間ができていると、皆思うけれども「心と体以外に、もう一つ、わけの分からん存在があるんだ」という風に考えるとすごく面白い。
理想がないところではコミットメントは起こらない。
催眠なんていうと、皆、嘘っぱちに思うんですが催眠というのは、ほとんどの人がかかると言っていいぐらい。
成功と言っても、所詮は世俗的な意味での成功であって、それがその人にとって本当に幸せか、その人の生き甲斐に通じるかは別の問題。
己を賭けることもなく、責任を取る気も無く、100%正しいことを言うだけで人の役に立とうとするのは虫がよすぎる。
100%正しい忠告は、まず役に立たないが、ある時、ある人に役だった忠告が、100%正しいとは言い難いことも、もちろんである。
参考:【こころの処方箋 河合隼雄】 100%正しい忠告はまず役に立たない
親の命令が画一的で、一から十まできちんと統制がとれている家庭の子は危険です。それに対して多少の悪さやいたずらをしても大目に見てもらえる家庭の子は、あまり心配しなくてもいい。
「のぞみはもうありません」と面と向かって言われ、私は絶句した。ところがその人が言った。「のぞみはありませんが、光はあります」なんとすばらしい言葉だと私は感激した。このように言ってくださったのは、もちろん、新幹線の切符売場の駅員さんである。