1人の金持ちが存在するためには、少なくとも500人の貧乏人がいなければならない。
水ほど役に立つものはないが、水では何も買えない。反対にダイヤモンドそれ自体は何の使用価値も持たないが、交換すると相当の量のものを手に入れることができる。
社会の利益を追求するより、自分の利益を追求する方が、社会の利益につながることが少なくない。
各人は自分の生活をもっとよくするために自然に努力するものであり、この努力を自由に安全に行えるようになっていれば、きわめて強力な力になるので、他に助力がなくてもそれだけで、社会に富と繁栄をもたらすことができるし、人間の愚かな考えで作られた法律のために、多少なりとも自由を制約し安全を損なう障害物が大量に設けられていても、それらを乗り越えられるのである。
(個人は)自分の利得だけを意図しているのであるが、見えざる手に導かれて、自分の意図ではなかった目的を推進する。
あなたは最初に自分自身について知らなければならない。自分自身について知っている者は、自分の殻を破ることができるし、自らの態度を傍観者のように観察できる。
国家は光り輝く金属の蓄積によって豊かになるのではない、そんなのは子供じみている。国家が豊かになるのはその国民の経済的な繁栄によってなのだ。
権力者、富裕層への称賛や崇拝、貧困者、困窮者への軽蔑や無関心は、我々の道徳の退廃の最大にして共通の原因だ。
常に快活であることほど優美なことはない。
三つの階級すべてが最大級の繁栄を達成できるようにするには、きわめて単純ではあるが、完全な正義、完全な自由、完全な平等を確立することこそが秘訣である。
三大階級:「地代で生活する人々」「賃金で生活する人々」「利潤で生活する人々」
もともと荷物かつぎの人と哲学者とは、番犬と猟犬ほどにも違わない。両者の間に深淵を開いたのは「分業」である。
犯罪者とは、略奪の本能を持ちながらも自治を獲得するほどの富を持たなかった者のことだ。ほとんどの統治は金持ちによる金持ちのための統治である。古代であれ現代であれ、大部分の組織的な不公正は統治者によって行われている。程度の差こそあれ、民政は富の保障のために生まれており、それは現実には貧乏人から金持ちを守るために生まれた。多くの財産を持つ者を、財産を持たぬ者から守るために生まれたのだ。
幸せなのか不幸せなのかはすべて心の問題であり、身体が健康か不健康かよりも、心が健康か不健康か、満足か不満足かに大きく左右されるはずだ。
各人が生活をもっとよくするために一斉に、たえず、間断なく努力することが、社会と国の繁栄、そして個人の繁栄を生み出す根本原因であり、この努力はきわめて強力なため、政府が派手な浪費を重ね、とんでもなく間違った政策を実行しても、ものごとの自然な進歩が維持されることが少なくない。
利己心の発揮は見えざる手を通じて社会の利益を増大させる。
世の中のために働いていると言っている人間で、本当に世の中のために働いている人間を見たことはない。
最小の労力をもって最大の欲望を満たすことが、人間の経済行為の基礎原理である。
同業者同士は歓楽や気晴らしのためでも会合を持つことはほとんどない。しかし、ひとたび会合を持てば、その会話から社会に対しての陰謀、値上げの企みがもたらされる。
利己心に勝る鞭はない。
社会に属する人々の大部分が貧しく不幸であれば、その社会が幸福で繁栄した社会となることは決してない。
金持ちの大部分にとって、富を楽しむ方法は主に富のひけらかしであり、それには富を象徴するもの、金持ち以外には持てるはずがないものを見せびらかすのが最高の方法である。
労働の賃金は勤勉への奨励であって、勤勉とは他のすべての人間の資質のように、それが受ける奨励に比例して進歩するのである。
我々が食事をできるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。
金がわずかでもあれば、それを増やすのは難しくない。難しいのはそのわずかを手に入れることなのだ。
金持ちの持つ強欲さや野心、貧困層の持つ労働の忌避や当面の安楽を好む気持ちは、資産の略奪を促進する。それらの感情は略奪を決心させ、社会全体に広める。
価値という言葉は二通りの異なった意味をもっている。ある時は特定のものの実用性を表現し、またある時はそのものの所有権が譲渡されることによって生ずる購買力を示す。第一のそれは「使用価値」第二のそれは「交換価値」と表現してもよいだろう。最大の使用価値を持つものでも、ほとんど交換価値を持たないことも多く、反対に最高の交換価値を持つものでもほとんど使用価値のないものもある。