あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。
何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜くことができないのである。
愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。
被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。
仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。
強制収容所での生活を送った私たちには、忘れられない仲間がいる。誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなにやさしい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンのひと切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人たちだ。そうした人たちは、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれたのだ。
ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。
あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない。
収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争の中で良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけがいのちをつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった。
人間の苦悩は気体の塊のようなもの、ある空間に注入された一定量の気体のようなものだ。空間の大きさにかかわらず、気体は均一にいきわたる。それと同じように、苦悩は大きくても小さくても人間の魂に、人間の意識にいきわたる。人間の苦悩の「大きさ」はとことんどうでもよく、だから逆に、ほんの小さなことも大きな喜びとなりうるのだ。
愛する人間が生きているかどうか——ということを私は今や全く知る必要がなかった。そのことは私の愛、私の愛の想い、精神的な像を愛しつつみつめることを一向に妨げなかった。もし私が当時、私の妻がすでに死んでいることを知っていたとしても、私はそれにかまわず今と全く同様に、この愛する直視に心から身を捧げ得たであろう。
スープの桶がバラックに持ち込まれた。(中略)私の冷たい両手は熱いスプーンにからみついた。私はがつがつと中味を呑みこみながら偶然窓から外を覗いた。外ではたった今ひき出された屍体が、すわった眼を見開いてじっと窓から中を覗き込んでいた。二時間前、私はこの仲間とまだ話をしていた。
苦悩の意味が明らかになった以上、われわれは収容所生活における多くの苦悩を単に「抑圧」したり、あるいは安易な、または不自然なオプティミズムでごまかしたりすることで柔らげるのを拒否するのである。われわれにとって苦悩も一つの課題となったのであり、その意味性に対してわれわれはもはや目を閉じようとは思わないのである。
各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、——意識されれば——人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。
人は習慣で行動するので、正しい思考とふるまいを早いうちに習慣化させるべきだ。
非凡な結果を得るために、非凡なことをする必要はない。
株を買うなら、どんな愚か者にも経営を任せられる優れた会社の株を買いたいと思うでしょう。なぜなら、いつかは愚かな経営者が現れるからです。
ビジネスでも投資でも問題解決に取り組むより、初めから対象を単純明快なものに絞った方が通常はるかに高い利益を上げられる。
まずまずの企業を素晴らしい価格で買うよりも、素晴らしい企業をまずまずの価格で買うことの方が遥かに良いのです。
10年、50年経っても「欲しい!」とみんなが思うものを作っているかどうか…これが私の投資判断の基準です。
価格はあなたが払うもの。価値はあなたが得るもの。
評判を築き上げるには20年かかるが、5分で台無しにできる。それを考えれば、あなたは振る舞いを変えるだろう。
悪い人と良い取り引きはできない。
習慣とは非常に軽いものであり、普段はその存在にさえ気付かない。だが一度意識すると、非常に重く断ち難いものであることがわかる。
ビジネスの世界では、バックミラーの視界はフロントガラスよりも常に鮮明である。
自分よりも優れた人と付き合う方が良い。あなたの手本となるような行動をとる人を近くに置くことで、あなたもその方向に導かれる。
どれだけ優秀な才能や努力を持ってしても、時間のかかるものはある。9人の妊婦を持ってしても、1ヶ月では子供は生まれない。
定まったロードマップを描くことができません。しかし知恵を磨くことはできます。
繰り返し流行している恐怖と貪欲という極めて感染しやすい2つの病は、投資の世界で永遠に発生し続けるだろう。これらの伝染病がいつ発生するのかは予測不可能だ。そして、それによって引き起こされる市場の異変も、その期間や程度を含めて同様に予測できない。だからこそ、いずれの病についてもその発生や消滅の予測をするつもりはない。我々の目標はもっと控えめなもので、他の人々が貪欲であるときに恐れ、他の人々が恐れているときに貪欲であろうとしているだけだ。
私はただ自分のオフィスの椅子に座って、一日中、読書をしている。
自分がどのような人間になるかは、誰を尊敬して見習うかによって大いに違ってきます。
「なぜ自分は現在のこの価格でこの会社を買収するのか?」というお題で一本の小論文が書けないようなら、100株を買うこともやめたほうがいいでしょう。
我々は、マクロ経済のイベントに対する懸念がピークに達したときに、最高の買い物をするものだ。恐怖は、流行に流される人にとっては敵だが、ファンダメンタリストにとっては友である。
私は、私のことを好きな人がどれだけいるかで成功を測る。
『恐怖』に弱い人もいる。これはウイルスのようなもので、ある人には他の人よりもはるかに猛烈な勢いで襲ってくる。心理的に対処できる人もいるが、それができない人は買うタイミングと売るタイミングを間違えることがあるため、株を持つべきではない。
喜んで10年間株を持ち続ける気持ちがないなら、たった10分間でも株を持とうなどと考えるべきではないのです。
他人が貪欲な時は慎重に、慎重な時は貪欲に。
あなたが人類で最もラッキーな1%に属しているなら、残り99%の人たちに責任がある。
場合によっては、注ぎ込む金額が少ないことが、かえって失敗になることがあります。
成功した人々と真に成功した人々の違いは、真に成功した人々はほとんどすべてのことに「NO」と言うということです。
ロケット科学者である必要はない。投資は、IQ160の人が、IQ130の人を打ち負かすゲームではない。
小さなことで規律を破ると、大きなことでも破るようになる。
最終的にその他のどのような投資にも勝る投資は、自分自身への投資だ。何であれ、自分の弱点だと思う部分の改善に取り組む必要がある。そして、それは今すぐ始めるべきことだ。
結局、誰が裸で泳いでいたのか分かるのは、潮が引いた時。
私は常にお金持ちなると分かっていた。疑ったことは一瞬たりともないと思う。